一口に文化施設、ホールといっても、規模や形態、設置目的や事業内容、運営の主体のありようはさまざまです。どの範囲まで数えるかによって全国のホールの状況の捉え方は異なりますが、実演芸術の上演に利用できる公立文化施設と民間施設をあわせると、全国各地におよそ3000館近くあるといわれています。その大半、2200館近くが公立文化施設です。主として300人以上の観客席のある自治体設置のホールを会員とする全国公立文化施設協会が施設総数の集約をしています。それによると、戦後徐々に増え1982年から1983年にかけて大幅に増加し、以降、ホール建設ラッシュといわれるほど増加傾向が続いていました。2000年を過ぎてから伸びが鈍化し、現在は微増または横ばい傾向にあります。
今でこそ座席数300以上の上演施設は、公立文化施設の方が民間施設より数が多いですが、かつて日本には全国に劇場が非常に多くありました。農村歌舞伎なども盛んで、地域ごとに能楽堂や芝居小屋があり、人々に娯楽を提供していたのです。昭和10年代には全国の芝居、寄席の数は2400を越えていたといわれています。しかし第二次世界大戦で被害を受け、また映画、テレビの普及などによって人々の娯楽の嗜好が変わり、多くが失われ、戦後新たに再建された劇場・ホールは、都市部に限られました。
日本で最初の公立文化施設は、1918年の大阪市中央公会堂で、次いで1929年の日比谷公会堂といわれています。公会堂は、文字通り、大勢の市民が集う集会用の施設で、もともと講演会用ですが、音楽や演劇、舞踊の公演にも使われるようになりました。戦前に設置された公立文化施設は20館ほどでしたが、戦後になって、教育関連の法整備、厚生年金など国民の福祉に関連する施設の設置を国および地方公共団体が担うこととなって、音楽や演劇、舞踊、映画など文化的イベントにも利用できるようなホールを備えた施設の整備が進みました。
高度経済成長期に公立文化施設が漸増していった背景には、国や地方公共団体の設備整備の施策もありますが、文化活動、芸術を求めた市民の存在があります。戦後、芸術団体が多数誕生しましたし、各地に市民の演劇、音楽鑑賞の場を会員制の組織で創出しようとする鑑賞団体運動の大きな流れがありました。これと併行して、子どもたちが情操豊かに、健全に成長することを願い、演劇関係者を中心とする芸術関係者と学校の教師が、学校における鑑賞教室の取り組みを始め、この動きも急速に拡大していきました。さらに1966年、福岡子ども劇場が誕生し、子どもの健やかな成長を願う母親と青年たちによる地域の活動が、舞台芸術の鑑賞と子どもたちが自主的にのびのびと活動できる場をつくることを運動の柱にして、全国におやこ劇場子ども劇場運動を広げていったのです。
このような文化団体の発展は、地方公共団体に対して、実演芸術の上演により相応しい施設を地域にという要望の高まりにもつながり、施設急増の要因になりました。地方公共団体に成熟した文化政策が確立していない時期でもあり、人々の文化活動も多様だったので、さまざまな地域文化団体や鑑賞団体の多様な要求に応える集会場として、そして公共事業的な発想で、多目的ホールが各地に建設されていったのです。
公会堂の頃は、大勢の人が収容できる施設であればよかったのですが、舞台芸術の演出効果が高度になり、愛好者や専門家がより良質の鑑賞環境を求めるようになるにつれて、公立文化施設への不満が取りざたされるようになりました。80年代になると、「多目的ホールは無目的ホール」といった批判に対して、より芸術の専門性を高めたホール建設が志向されるようになりました。「芸術文化センター」というような名称で、音楽や演劇などの専門施設、能楽堂といった特定のジャンルの上演を想定して設計された施設が多数建設され始めたのはこのころです。しかし、専門性を備えたのはもっぱらハード面でしたので、次いで「ハコ」ばかりができて「ソフト」がないという批判が繰り返されました。
公立文化施設は、もっぱら地域の文化団体等が借りて自らの団体の活動発表の場としたり、プロの劇団や音楽家などを招へいして鑑賞会を開くといった目的に利用されていましたが、それ以外に、地域で行われるさまざまな集会に利用されていました。「ソフトがない」という批判には、まずは公立文化施設が自ら主催者となって公演などの事業を実施する「自主事業」の実施で対応されました。芸術団体に上演を依頼するという、いわゆる「買取公演」が始まったのは1960年代にまで遡ります。公立文化施設の連合組織である全国公立文化施設協議会(社団法人全国公立文化施設協会の前身)の設立は、歌舞伎公演の巡回コースづくりが発端でした。その後、この事業形態は全国に定着し、自主事業の分野も多様化していきます。買取型公演事業が盛んになる一方で、市民の参加、地域の一体感をもっと促すべきである、劇場・ホール自らが創造する事業が必要である、運営スタッフが専門性を持つべきであるというように、批判も変遷し、それにつれて市民ミュージカル、市民オペラ、市民演劇と「参加型」「制作型」公演が取り組まれるようになったり、次いで「体験型」「教育普及事業」といわれるワークショップ、アウトリーチ活動などが広まったり、公立文化施設の事業が多様化していきました。
1990年以降になると、水戸芸術館、彩の国さいたま芸術劇場、静岡芸術劇場、びわ湖ホールなど、芸術監督や専属の制作スタッフがいて、自ら舞台芸術を創造する機能を有する文化施設や、墨田トリフォニーホールと新日本フィルハーモニー交響楽団とがフランチャイズ関係を結ぶといったように、新たな公立文化施設のあり方が模索されるようになりました。1997年に世田谷パブリックシアターと新国立劇場が開場すると、それまでの公立文化施設という呼称に代わって、「公共劇場」という言い方が頻繁になされるようになりました。何をもって「公共劇場」とするか、明確な定義は難しいですが、芸術の公共性を地域に活かしていくという理念にたって事業を行う組織が運営している点が共通項といえます。
芸団協では、実演芸術の振興には地域の文化拠点の整備が不可欠という考えから、早くから「仮称・劇場法」なるものが必要ではないかという議論を重ね、劇場の法的整備と拠点としての活性化について研究してきました。2001年の文化芸術振興基本法の制定は、その具体化への大きな一歩であり、実際、基本法制定後の2002年度より、国による芸術支援施策の中に、「芸術拠点形成事業」として劇場やホールを対象とした支援策がスタートし、「公共劇場」が地域に貢献すべきだという考え方は、各地で広がり始めました。芸団協は仮称・劇場法の研究を重ね、2009年2月に「社会の活力と創造的な発展をつくりだす劇場法(仮称)の提言」、2010年6月に「社会の活力と創造的な発展をつくりだす実演芸術の創造、公演、普及を促進する拠点を整備する法律」が必要だとする「実演芸術の将来ビジョン2010」を発表しています。また、文化庁は拠点形成事業を2010年度より「優れた劇場・音楽堂からの創造発信事業」に施策変更し、地域の文化拠点として劇場、音楽堂の活用化を図ろうとしています。
2011年2月に閣議決定された第三次の「文化芸術の振興に係る基本的な方針」の中で、「現在、法的基盤のない劇場・音楽堂等が優れた文化芸術の創造・発信等に係る昨日を十分に発揮できるようにするため、劇場、音楽堂等の法的基盤の整備について早急に具体的な検討を進める」という一節がありますが、文化庁は2010年12月から劇場・音楽堂等の制度的な在り方に関する検討会を設置して、関係者に広く意見を徴し、2012年1月に「劇場、音楽堂等の制度的な在り方に関するまとめ」を公表しました。それを受けて、超党派の国会議員で構成する音楽議員連盟が「劇場、音楽堂等の活性化に関する法律」(案)を検討し国会で審議のうえ、2012年6月21日、法として成立しました。6月27日に公布、施行されています。今後、同法16条に定められたとおり、劇場・音楽堂等の活性化のための指針が策定されることになります。この法整備を土台に、支援策の充実と地域の文化振興が期待されるところです。
「劇場、音楽堂等の活性化に関する法律」