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野村萬芸団協会長が、文化勲章親授式に出席しました

芸団協

2019年12月06日

2019年11月3日、皇居にて文化勲章親授式(伝達式)が行われ、天皇陛下より、野村萬芸団協会長に文化勲章が授与され、内閣総理大臣から勲記が伝達されました。

2020年1月に卒寿を迎える今も、現役として舞台に立ち続けていることをはじめ、狂言の魅力を国の内外に伝え、多くの人々に感銘を与えるととともに、狂言の継承保存に尽力し、新作や復曲にも積極的に取り組んできたことなどの功績が受章理由として挙げられ、能楽師としては4人目の受章となります。


また、野村萬芸団協会長は、1977(昭和52)年に芸団協理事に就任し、1997(平成9)年から現在に至るまで芸団協会長を務めています。
芸団協会長として、わが国の芸能の発展向上に尽力していることも受章理由に挙げられており、中村歌右衛門芸団協前会長に引き続いての受章となりました。

野村 萬(撮影:武藤奈緒美)
記者会見の様子(撮影:あかさか くみ)


受章にあたって~野村萬芸団協会長の言葉(記者会見より)


令和の御代の最初を飾る御即位の年に、文化芸術の最高位の栄誉を頂戴いたしましたことは、本当に有り難く、感謝感激でございます。それよりほかに言葉はございません。

私は、来年一月には卒寿という年を迎えます。この年齢に至り、まだまだ舞台をつとめることができる身体を授けてくれた両親に、まず感謝しなければなりません。同時に、明治・大正の大先輩から昭和の同僚、そして平成の後継者たちが、舞台で大所高所から支えてくれたお蔭であると感謝いたしております。

能を大成した世阿弥の頃は、人生はわずか五十年でした。百年という今日において、九十という年齢で、どういうふうに舞台をやって行ったら良いのか。なかなか発見できません。しかし、世阿弥の言葉にある「老後の初心」を発見しつつ、「老木に花の咲かんが如し」を心に置いて、「少な少なの花」ですけれども、舞台に味わいのある花を咲かせてゆきたい。そうできるようにこれからも、もっともっと精進を重ねて行かねばならないと思っております。

私は父の六世万蔵から厳しく稽古をつけられました。「学校はやめろ」と何度も言われ続けました。学校へ行っているヒマなんかないんだ、と。芸の修行と人間教育の流れとは一致するのです。私も今ならそう理解できます。けれども、何とか学校へ行きたいと考え、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)邦楽科に能の専攻で入学しました。そこでは長唄も三曲もあり、学内演奏会では安川加寿子先生のピアノや、宮城道雄先生のお箏を耳にすることが出来ました。知らず知らずのうちにいろいろなものを身体に呼吸させていただいたことが、現在、芸能全体を束ねている芸団協という組織をお預かりする上で、とても大事なバックボーンになっています。


私の前は、中村歌右衛門さんが二十年ばかり、芸団協会長をお務めになっていました。私がお引き受けしてから、今年でちょうど同じ年月になります。組織としては、著作隣接権をはじめとする権利処理と芸能振興をしっかりとやって行かなくちゃならない。その運営には、実演家・舞台人がきちんと目配りする必要があります。活き活きとした組織であり続けるためには、老・壮・青という三つの世代がスクラムを組んで行かなければいけないと実感をしております。

私のやっている狂言の主人公である太郎冠者は、愚鈍なときもありますけれども、いざとなったら下剋上につながって行くぐらいのエネルギーを持っています。そういう心は、仕事の上でもなくちゃならないんじゃないか。芸団協も太郎冠者のような心でリードして行きたい。これからの新しい時代に伝承して行くためのバックボーンになって行くことが、この度のご褒美を頂戴した、とても大事な意味合いだろうと思っております。