2015.12.10
アーツマネジメント連続講座 特別講座『沖縄芸能史を学ぶ』8月1日レポート
5/11(月)から11テーマ、17日間にわたり実施してきた「アーツマネジメント連続講座2015」も、ついに最終回です。
アーツマネジメント連続講座は、県内の芸術文化を運営面から支える人材の育成を目的に実施してきました。この特別講座『沖縄芸能史を学ぶ』は、沖縄の文化芸術をさらに発展させていくためには、沖縄の芸能の歴史やその固有性を深く理解し、共有することは欠かせないテーマであると考え、企画したものです。
特に今年は、「国際児童・青少年演劇フェスティバル りっかりっか*フェスタ」へ県内外から多くの方々が集まる期間に、このテーマについて学び考える機会となることを期待し、フェスティバルとのコラボレーション企画として実施しました。
講師には、沖縄の伝統芸能研究の第一人者である琉球大学教授・大城學先生、沖縄の民俗芸能やポップカルチャーの研究で知られる沖縄県立芸術大学付属研究所教授・久万田晋先生を迎えました。
講座の前半は、大城先生による組踊の歴史についての講義。
「組踊(くみおどり)」と「琉球舞踊」はしばしば混同されますが、組踊は、せりふ(首里の士族語)、音楽(琉球古典音楽)、所作、舞踊(琉球古典舞踊によって構成される歌舞劇(楽劇)を指します。
首里王府が中国皇帝の使者である冊封使を歓待するために作り上げた芸能で、1719年に初演されました。
組踊の創作者は、王府の役人であった玉城朝薫(1684~1734)とされています。琉球王府は、1718年、当時34歳であった朝薫を踊奉行に任命ました。
玉城朝薫が組踊を完成させる以前、王府における歓待や餞別の宴には「球戯(きゅうぎ)」と呼ばれる琉球の戯曲が演じられてきました。大城先生の長年の研究により、朝薫が組踊成立以前の戯曲にも関わっていたことが少しずつ判ってきました。
玉城朝薫は、のちに「朝薫の五番」と呼ばれる『執心鐘入』、『二童敵討(護佐丸敵討)』、『銘苅子』、『女物狂』、『孝行の巻』の5作品を残しています。これらはいずれも1719年に初演されています。
組踊のテーマは、儒教倫理の徳目である「忠」「孝」が元になっており、いわゆる勧善懲悪の世界観としてそれらが描かれています。
そして、ストーリーに王府が深く関わる展開が多くみられるのも組踊の特徴のひとつです。
ひとつの演目において音楽が占める割合が非常に高く、全体の時間の約50%を音楽が占めているといわれています。
また、歴史的にオープンステージ(張出舞台)で上演されてきたため、元来は引幕や緞帳は使用されません。
舞台に橋掛かりがあることから能の影響が感じられますが、橋掛かりとは逆側のいわゆる上手からも演者が出入りする点が能や狂言と大きく異なります。
冊封使(さっぽうし)歓待の宴は王府が主催する国家的行事であったため、作者から演者、三線、箏、笛、胡弓、太鼓にいたるまで、すべて士族階級の男性が携わりました。
現在では女性の立方もいらっしゃいますが、「文化財」として上演される際にはすべて男性だけの演者によって上演されます。
琉球政府時代の1967年、琉球政府文化財保護委員によって「玉城朝薫作組踊五番」が文化財に指定されました。
本土復帰後の1972年には「組踊」が国の重要無形文化財に、そして2010年にはユネスコの無形文化遺産に登録されて今日に至ります。
講座の後半は、久万田先生による沖縄の大衆音楽の展開についての講義。
久万田先生は、沖縄の伝統芸能を「古典芸能」、「民俗芸能」、「大衆芸能」の3つに分類しています。
「古典芸能」は組踊や琉球舞踊など、琉球王朝時代に首里を中心に育まれた芸能を指します。講座の前半で大城先生がお話し下さった部分です。
これに対し「民俗芸能」は、集落のお祭りなどで演じられてきたような、地域の人々によって育まれてきた芸能を指し、「古典芸能」とも深いかかわりを持っています。
「大衆芸能」は、明治以降に市民社会で培われてきた芸能です。特に昭和以降は、レコードの普及によって目覚ましい発展を遂げました。今回お話いただく「大衆音楽」は、この「大衆芸能」の一部にあたります。
「古典音楽」、「民俗音楽」と、「大衆音楽」の決定的な違いは、作者の有無です。
もちろん、組踊の中に取り入れられている琉歌のように詠み人が判っているものもありますが、これらは基本的にある種の「共有物」と捉えられています。
これに対して「大衆音楽」、いわゆるポピュラー音楽は、誰が作曲し、誰が作詞したかが明確です。講座8で学んだ「著作物」の定義に該当します。
沖縄における“今日的”な「大衆音楽」のルーツをたどっていくと、普久原 朝喜(ふくはら ちょうき)にたどり着きます。1927年、大阪にてマルフクレコードを設立し、作詞・作曲・制作をすべて一人でこなす総合プロデューサーとして活躍しました。
今日でも歌われている『移民小唄』を始め、『入営出船の港』、『懐かしき故郷』、『通い船』など数々のヒット曲を生み出し、「新民謡(創作民謡)のパイオニア」として名を馳せています。
今でこそ、BEGINやHYなど、沖縄出身のアーティストが三線を楽曲に取り入れても違和感を覚えない時代です。
しかし、普久原朝喜が活躍した戦後~60年代頃の時代の作品を聞くと、いわゆる「洋楽」であったポピュラー音楽にいかにして沖縄の伝統楽器を取り入れていくか、様々な試行錯誤が行われていたことがよく分かります。
普久原朝喜が開拓した新民謡をさらに拡大させたのが、朝喜の養子であった普久原恒男です。普久原恒男は、洋楽や日本の流行歌の様式を大々的に導入し、沖縄歌謡曲を確立させました。
新民謡最大のヒット曲である『芭蕉布』、沖縄ポップの先駆ともいえる『ホップのトゥラバーマ』、古典的新民謡ともいえる山里ゆき子の『遊び仲風』など、沖縄音楽ファンや沖縄県民なら誰でも知っている名曲の生みの親として知られ、これまでに生み出した曲は400曲以上に達しているとも言われています。
1960~70年代にかけては、本土や海外の動向と呼応するように、沖縄でもフォークやオキナワン・ロックなどが誕生しました。
特に、1972年の本土復帰以降は、以前と変わらない米軍基地との関係や、その基地からベトナム戦争へ軍機が向かっていくことへの葛藤などが音楽に反映されるようになっていきました。
1970年代後半に入り、喜納昌吉や知名定男が全国デビューすると、いよいよ「沖縄ポップ」が花開きます。
沖縄ポップの黎明期を代表する2曲、『ハイサイおじさん』と『バイバイ沖縄』はともに1977年に生まれました。
その後、若干の停滞期を経て、1990年代以降は新世代が台頭する復活期を迎えます。
りんけんばんどやネーネーズ、ディアマンテスらが全国的に活躍し始めるのもこの頃です。
90年代後半以降は、モンゴル800に代表される沖縄ハードコア系が…というところで残念ながら講座は終了の時間。
お二人の先生の講座はあっという間に時間が過ぎました。受講者からも、なかなかきちんと機会がないため大変おもしろかったとの声が多かったです。締めくくりにふさわしい、とても充実した講座となりました。
「アーツマネジメント連続講座2015」はこれで終了しましたが、沖縄のこれからを考える上で、これらの講座が何かきっかけのひとつになればと願っています。